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平成22年09月17日 虫の詩人の館・館長 奥本 大三郎氏

平成22年09月17日放送
「虫と遊び、虫に学ぶ(2)」

虫の詩人の館・館長 奥本 大三郎氏

虫の詩人の館
奥本 大三郎(おくもと だいさぶろう) - Wikipedia



 仏文学者で、ファーブル昆虫記の翻訳などを手がけられている奥本氏が、自身のファーブルへの思い入れや、子どもの自然とのふれあいの重要性などを語っておられました。


 子どもにとって、豊かな自然の中でたった一人になって物を考えること、あえて退屈する時間を持ち、その中で自分で本を読んで調べることが子供に自分で考える能力を培わせる。


 その根拠としてファーブルの生い立ちや「書物というものは人の考えを写しているだけで自分で考えていない」として自分の目で見たことしか信じないというファーブルの実証主義を挙げられています。

 また、それと対比して、インターネットでピンポイントに答えを見つけて来るような手軽な情報摂取には批判的で、このように子供から考える機会を奪う文化は「人類の滅亡を早めるものだ」と断じておられました。

 本とインターネットの扱いには、少し前後矛盾する部分や偏見もあるように感じましたが、与えられた情報を疑って「自分の目で確かめ、耳で聞いて、手で触る」という実証的な態度は大いに共感しますし、可能な範囲でしっかり実践していきたいことだと思いました。



 また、奥本氏はNPO法人日本アンリ・ファーブル会の会長として、緑化・昆虫標本の保存・子供達の虫との関わり合い方についての啓蒙活動などをされているようです。

 最近の日本では生物保護や環境破壊などの理由から、昆虫採集の習慣が失われつつあり、その反論として、

・生き物を殺して食べることは人間にとって身体を養うために必要なこと
・虫をいじって遊んで結果的に殺すことは精神を養うために必要なこと

というふたつの必要性を語られています。


 殺生したことによる後味の悪さ、寂しさ、後ろめたさが命は大事だという実感につながるということ、それは言葉だけで聞いてもわからない。


 これについては、私の幼少時の体験を思い出しました。

 ある時、よく一緒に遊んでいる虫採り仲間が、物知り顔で「見てろよ」と言うと、たった今捕まえたばかりのバッタをおもむろに壁に投げつけたことがありました。

 壁にたたきつけられて地面に落ちたバッタを覗き込むとすでに絶命して動かなくなっていましたが、私は何の意味もなく殺されたバッタを不憫に思いながらも、その姿にちょっとした感動を覚えていました。

 バッタという生き物はとても警戒心が強く、うまく音を立てないように近づかなければ捕まえることができません。

 また、捕まえたあとも手を離せばすぐに大きな後ろ足で跳びあがって逃げてしまいますし、放り投げたりすればこれを好機と羽根を広げてそのまま何処かへ飛び去ってしまいます。

 つまり、バッタにとって人の手を離れることはそのまま自由になることに他ならないはずだったのですが、そのバッタは人の手を離れた直後に逆に動かなくなってしまいました。

 それは子供心に、それまでの常識が揺らぐと共に新鮮な驚きを伴う出来事だったのです。

 これは、虫採り仲間の態度からも当時の子供の間では当たり前のように共有されうる感覚だったのだと思いますが、バッタというものを実際に苦労して捕まえた経験のない人には分かりにくいものかも知れません。

 また、バッタには愛玩用の他に、カマキリのえさになるという過酷な使命があるのですが、カマキリの前に突き出しされたバッタに対しては何の同情もなく、その虫かごの中に転がっている食べ残されたバッタやコウロギの無数の頭部などは、今見れば驚いて虫かごをひっくり返してしまいかねませんが、当時はそんなものは見えていないかのようにただ捕食の様子にほれぼれと見入っていたものです。

 私自身は、こうした体験と現在までの人格形成に連続性があることさえも実感しづらいところがありますが、子供にとってどのような影響を及ぼしうるのかについては、むやみに美化したり忌避するのではなく、さらに掘り下げた議論がされる必要があると思います。



 奥本氏は、この活動を語る中で「子どもが自分の子どもの時と同じようなことをしてくれると嬉しい」、「虫の採り方を教えると尊敬される。子供に尊敬されるというのはいいものですよ」と発言されていましたが、この活動の動機づけとしてはそれが最も率直でわかり易い解説だと思いました。

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