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平成24年4月20日 NPO法人日本チョウ類保全協会理事 松村行栄氏

平成24年 4月20日放送


「ヒメギフチョウの舞う頃」

作家 NPO法人日本チョウ類保全協会理事 松村行栄氏

日本チョウ類保全協会
活動報告ブログ
赤城姫を愛する集まりwebsite




 幼少時から父親と小学校の先生の影響でチョウに親しんでいた松村氏は、日本に約240種類いるチョウのうち1/4が絶滅に向かっているという現状に危機感を抱き、57歳で製薬会社研究員の職を辞してチョウの環境保全活動に専念する道を選びました。

 「チョウは自分にとって一番の親友」と言ってはばからない松村氏は、チョウを愛でて楽しむという文化を一般に広めていくことの重要性のひとつとして、チョウを守ることは日本の文化を守ることだと言います。


 「人間の生活様式が変わってくると自然との関わりが変わってくるわけですね」


 かつての里山では、薪を作ったり落ち葉かきをする事によって常に手を加える事で自然を作っていましたが、やがて炭がガスになり、雑記林が不要なものとして放置されるようになると、自然環境も荒れ果て生物にとっても住みづらい環境になってしまいました。

 こうした現状に対し、松村氏は山との関わりを新しく作っていくことを訴えかけ、そのモデルケースとしてイギリスの例をあげています。

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平成22年09月17日 虫の詩人の館・館長 奥本 大三郎氏

平成22年09月17日放送
「虫と遊び、虫に学ぶ(2)」

虫の詩人の館・館長 奥本 大三郎氏

虫の詩人の館
奥本 大三郎(おくもと だいさぶろう) - Wikipedia



 仏文学者で、ファーブル昆虫記の翻訳などを手がけられている奥本氏が、自身のファーブルへの思い入れや、子どもの自然とのふれあいの重要性などを語っておられました。


 子どもにとって、豊かな自然の中でたった一人になって物を考えること、あえて退屈する時間を持ち、その中で自分で本を読んで調べることが子供に自分で考える能力を培わせる。


 その根拠としてファーブルの生い立ちや「書物というものは人の考えを写しているだけで自分で考えていない」として自分の目で見たことしか信じないというファーブルの実証主義を挙げられています。

 また、それと対比して、インターネットでピンポイントに答えを見つけて来るような手軽な情報摂取には批判的で、このように子供から考える機会を奪う文化は「人類の滅亡を早めるものだ」と断じておられました。

 本とインターネットの扱いには、少し前後矛盾する部分や偏見もあるように感じましたが、与えられた情報を疑って「自分の目で確かめ、耳で聞いて、手で触る」という実証的な態度は大いに共感しますし、可能な範囲でしっかり実践していきたいことだと思いました。



 また、奥本氏はNPO法人日本アンリ・ファーブル会の会長として、緑化・昆虫標本の保存・子供達の虫との関わり合い方についての啓蒙活動などをされているようです。

 最近の日本では生物保護や環境破壊などの理由から、昆虫採集の習慣が失われつつあり、その反論として、

・生き物を殺して食べることは人間にとって身体を養うために必要なこと
・虫をいじって遊んで結果的に殺すことは精神を養うために必要なこと

というふたつの必要性を語られています。


 殺生したことによる後味の悪さ、寂しさ、後ろめたさが命は大事だという実感につながるということ、それは言葉だけで聞いてもわからない。


 これについては、私の幼少時の体験を思い出しました。

 ある時、よく一緒に遊んでいる虫採り仲間が、物知り顔で「見てろよ」と言うと、たった今捕まえたばかりのバッタをおもむろに壁に投げつけたことがありました。

 壁にたたきつけられて地面に落ちたバッタを覗き込むとすでに絶命して動かなくなっていましたが、私は何の意味もなく殺されたバッタを不憫に思いながらも、その姿にちょっとした感動を覚えていました。

 バッタという生き物はとても警戒心が強く、うまく音を立てないように近づかなければ捕まえることができません。

 また、捕まえたあとも手を離せばすぐに大きな後ろ足で跳びあがって逃げてしまいますし、放り投げたりすればこれを好機と羽根を広げてそのまま何処かへ飛び去ってしまいます。

 つまり、バッタにとって人の手を離れることはそのまま自由になることに他ならないはずだったのですが、そのバッタは人の手を離れた直後に逆に動かなくなってしまいました。

 それは子供心に、それまでの常識が揺らぐと共に新鮮な驚きを伴う出来事だったのです。

 これは、虫採り仲間の態度からも当時の子供の間では当たり前のように共有されうる感覚だったのだと思いますが、バッタというものを実際に苦労して捕まえた経験のない人には分かりにくいものかも知れません。

 また、バッタには愛玩用の他に、カマキリのえさになるという過酷な使命があるのですが、カマキリの前に突き出しされたバッタに対しては何の同情もなく、その虫かごの中に転がっている食べ残されたバッタやコウロギの無数の頭部などは、今見れば驚いて虫かごをひっくり返してしまいかねませんが、当時はそんなものは見えていないかのようにただ捕食の様子にほれぼれと見入っていたものです。

 私自身は、こうした体験と現在までの人格形成に連続性があることさえも実感しづらいところがありますが、子供にとってどのような影響を及ぼしうるのかについては、むやみに美化したり忌避するのではなく、さらに掘り下げた議論がされる必要があると思います。



 奥本氏は、この活動を語る中で「子どもが自分の子どもの時と同じようなことをしてくれると嬉しい」、「虫の採り方を教えると尊敬される。子供に尊敬されるというのはいいものですよ」と発言されていましたが、この活動の動機づけとしてはそれが最も率直でわかり易い解説だと思いました。

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平成21年10月27日 環境経済学者 佐和 隆光氏

平成21年6月26日放送
平成21年10月27日アンコール放送

「日本のあす、私の提言~環境は経済を救うか?」
環境経済学者 佐和 隆光氏

佐和 隆光(さわ たかみつ) - Wikipedia



 ハイブリッド専用車の圧倒的なランニングコストの安さなど、エコ関連商品の有用性を解説するとともに、低迷する日本経済の打開策としてエコ産業の推進を図るべきだと言う内容のインタビューでした。

 オバマ大統領のグリーン・ニューディール政策を紹介し、エコ産業に従事する人たちをグリーン・カラー・ワーカーと呼び、社会の役に立つのだからみんなの憧れの職業になるはずだ、といった発言からも、氏が熱烈なエコ産業信者であることが伺えました。

 ただ、その中で、ひとつ気になる発言もありました。


 インタビューの中で、佐和氏は、欧州の環境先進諸国との比較で日本人の環境意識の低さを嘆いておられます。


 佐和氏は、それらの諸国の環境意識の高さの根拠として、経済力と教育レベルの高さをあげ、日本は同等の経済力と教育レベルがあるにもかかわらず、なぜ環境意識が低いままなのか、という疑問を呈し、その答えとして日本人の知力レベルの低さを指摘しているのです。


 私は、この発言に大変な違和感を覚えました。


 経済力や教育レベルには、GDPや普通教育・高等教育の普及といった、一応の基準となる統計データが存在します。


 では、知力レベルとはいったい何をさしているのでしょうか。
 佐和氏によれば、大学の現場でも学生の知力レベルは昔より上がるどころか、むしろ下がっているといいます。
しかし、少子化やゆとり教育など、それを裏付ける補助証拠はありますが、いずれも現在の日本人の知力水準を評価する直接的な根拠とはなりません。
 つまり、それは、佐和氏の現場レベルでの、主観に基づく単なる思い込みでしかないのでしょう。


 そして、私は、このような発言が日本の学究現場の権威ある人物の口から発せられたという事実を強く懸念します。

 なぜなら、このような根拠に乏しいレッテル張りは、紛れもない差別発言だからです。
 そして、日本人が自分で言っていることを、外国人が遠慮したり自重する理屈はありません。


 つまり、このような発言は外国人に対して、「日本人は知力水準が低く、皆さんと対等な立場で話し合い、問題を解決する能力に欠けるので、その様なものとして扱っていただいてかまいません」と宣言しているのと同義なのです。


 私は、日本が環境先進国家となるためには、まず、東アジア地域が環境先進諸国となり、互いに協調・監視していく体制を構築することが最も重要で有効な手段であると考えます。


 先進的なアスリートの世界では、実力以上の力を引き出すためには、優れた競争相手の存在が欠かせません。
 人間は、すぐに怠けようとする生き物ですが、競争相手が隣を走り、今にも自分を抜き去っていこうとする時には、無い力を振り絞っても追いすがろうとします。


 振り返って日本の周囲を見渡すと、残念ながら、中国はまるで環境汚染の見本市のように連日報道され、韓国も日本と肩を並べるまでにはいたっていません。

 こうした環境の中で、日本のみに、欧州の環境先進諸国並みの高い意識をもとめるのは、はじめから無理のある話です。


 これを解消し、意識レベルの向上と維持を図るためには、他の東アジア諸国との連携が欠かせませんし、逆に、このような周辺環境を顧みず、独立試行の果てに「世界に追いつけない!」と、自家中毒を起こしているようではナンセンスの謗りは免れないでしょう。



 このインタビューで、私が特に驚かされたのは、佐和氏が現役の大学教授であったということです。


 大学教授と言えば、ほとんど顧みられることの無い地味で退屈な学問の世界に身を投じ、不毛の荒野にいつ芽が出るとも知れない種を地道に撒き続ける、そんな活動を生涯の生業としている奇特な人達であり、それだけにその専門分野における発言には他の職種の人には無い慎重さと説得力があります。


 この番組でも、インタビューの質は玉石混交ながら、大学教授のインタビューからは常に学ぶところが多く、逆に佐和氏のような軽率な発言が目立つのは、畑違いの分野に首を突っ込んできた名誉教授か、作家か、宗教家というのが相場です。


 それだけに、今回のインタビューでは、自分の中の大学教授観を改めねばならないと感じましたが、もちろん私は、主観のみで統計データに基づかず「最近の日本の大学教授の質も落ちたものだ!」などと悲嘆するつもりはありません。

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